モラルの成熟 教養の低下

モラルの成熟 教養の低下

知識レベルの低い読者と、小難しい語彙を使いたがる筆者のバランスは、考えるほどに難しいなあと思う。

 

これまでもブログ、レビューをはじめ、インタビューや取材記事、舞台脚本など様々な文章を書いてきた。これからも書くことをライフワークにしたいと思っている。

読むことも好きだ。

小説、エッセイ、ビジネス書、新聞雑誌、もちろんインターネットに転がっているブログやツイートも。

文章力は100メートル走のタイムやTOEICの点数のように、能力の高低を数値に落とすことはできない。だけど悲しいほどにその差は読み手に伝わってしまう。

感情的とかフレンドリーとか静謐とか文章の色や言葉選びも筆者の力量とカラーが出るところ。

けれど個人的に、新聞でも目にしないレベルの出現頻度の低い表現を多用した文章は知識のひけらかしとしか感じない。

「だって伝わらなきゃ意味ないし」

と思ってしまう。

けれど同時に、あまりに受け手が無教養だったらそのレベルまで表現の質を下げるべきなのか、どうかという問題にぶち当たる。

とあるツイートで、人生でもう二度と目にしないであろう単語に出会った。

それは「逓減」という語。

「だんだん少なくなる」って書いても、意味のある文章なら価値は変わらないと思う。同時にこの単語を当然知っているべきか否かの判断が付かず、自分の教養の欠如を一応反省してみる。

この話題について、新聞記者をしている先輩に、漢字が過剰だと読者は一気に読む気が失せるから、漢字をつかわずにやさしい表現でひらがなに、という教育を受けていると教えてもらった。私としても、文章の意味を間違って取られるリスクがあるなら平易な表現にしたほうがいいと思う。伝わらなければ意味はない、と思っている。

しかし同時に、人々の知識レベルが下がり、複雑な表現を理解できなくなっていって、どんどん表現のレベルが下がり…となると、負の連鎖だと怖さを感じる。

表現手段が多様化・簡便化する中で、質の高いインプットも続けなければいけないと自戒も込めて強く思う。

漫然とテレビを見ていたとき、文章だけでなく、”笑い”にも教養が関係してくるな、と感じたことがあった。

自分の知っている世界や常識から外れるものを見て笑う場合、それは「前提を知っているから笑える」のである。

かつてベネトンが金正日やオバマなどの国家元首をキスさせる合成写真広告を出して話題になったが、彼らが誰で、どんな関係にあるかを知らない人が見たらそれはただの「おじさん同士がキスしているキモい写真」でしかないだろう。本当に伝えたい可笑しみ、滑稽さは決して届かない。

笑い以外の場面でも、受け手との間で知識や背景の共有がなければ正しく意図が伝わらないことがほとんどだろう。極端な表現になるが、「馬鹿(理解力の乏しい人)に合わせて」しまったら、 全体としての知識レベルやクオリティは下がらざるを得なくなるのではないか。

私が子供の頃…今から20年くらい前は、罰ゲームで電流を流したり高いところから突き落としたりはよく目にする光景だった。そして私も家族も笑っていた。今ではとても放送出来ない内容もあっただろう。

面白ければなんでもいい、から成熟していったと言えば聞こえはいいけれど、こういう「もっともらしい改善」に紛れて、過剰で不当な規制が増えて行かないか、それは考えると少し怖い。

誰にでもわかりやすく、は果たして本当によいことなのだろうか。

ギャップにこそ、固有の魅力が発揮されるのではないかしら。

 

未だに考え続けているが、「できるだけ誤解なく、多くの人に伝える」ことの難しさを日々感じながら表現を続けていきたいと思っている。

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