夕学五十講 穂村弘『言葉の正体』

夕学五十講 穂村弘『言葉の正体』

2014.4.11 夕学五十講
穂村弘『言葉の正体』

丸ビルホールにて穂村弘氏講演会。
これまで3回トークイベント参加しているし、著作も全部読んでいるけれど、また新しい発見があった。質疑含め2時間と内容濃い。
(価格は少々強気だと思うが、主催があれだからしょうがない)

トークタイトルは「言葉の正体」
質疑でもこのお題の”答え”について質問が出た。
少し観念的な話にもなったけれど私なりの解釈として、
言葉とは世界像を作っているものだから、言葉に着目したら自分の世界像を認識できる。同時に他者との違いも把握できる。
言葉とは道具(伝達ツール)であるが、同時に各人の世界像は言葉で作られる。よって言葉が変われば世界像が変わる。
言葉が違えば他者と世界像が異なってしまう。だから人と人は通じ合うのが難しい。
言葉の違いに着目すれば、別の世界像を理解できる、他者を理解できる。
といった感じ。

言葉の受け取り方の差異に着目すれば、自分のいる世界像と他者の世界像を相対化して捉えることができる。
自分の世界像の外に出たら言葉の持つ意味が変わることを認識する。そのズレは自分の”特異性”と言い換えられる。

講演中、『世界』と『世界像』が明確に使い分けられていた。世界は誰にでも共通で、今流れているこの時、そのものである。世界そのものは同じなのに、考え方や捉え方が違うのは、私たちは世界を自分自身の『世界像』という形で捉え直しているから。
“世界は変わらないけれど言葉によって世界像は変わる”のである。

これをほむほむは蜘蛛の巣に喩えていた。
蜘蛛にとって吐く糸は巣を作る道具だが、それは巣そのものとなる。また、巣は蜘蛛ごとに様相が違う。
人間が蜘蛛なら言葉=蜘蛛の糸=道具、世界像=蜘蛛の巣=蜘蛛の糸で作られたもの。
世界像は人によって異なる。糸の性質が変われば巣が変わる。
かつ、蜘蛛はその巣の上でしか生きられない。
モヤモヤしていた話題が一本につながった感覚。やはりほむほむは天才だ。

言葉はとても特別なものなのだ。
言葉=ツールではあるけれどただの道具ではない。なぜなら言葉で世界はできているから。扱い方を間違えると大変なことになる。
同時に言葉の違いを理解し、他者と自分は同じ世界を違う世界像で生きていると考えれば、生きやすくなるのではないかと感じた(なんかアドラーっぽい)
以下講義の内容まとめ。私の感想は(かなり恣意的な解釈をしている可能性があるので)水色で区別することにする。

言葉と世界像、そして世界

 「お前は私がお腹を痛めた子じゃないんだよ」
お前は私の子じゃないと言われても、言われた前後で遺伝子が変わるわけではない。
遺伝子はおろか、現実世界は一切変わっていない。
なのに自分を取り巻く世界が変わったと感じる=世界像が変わってしまった、ということ。
それまで自分の中にあったものが、ドミノが倒れるようにひっくり返ってしまう。

この例は、自分は『世界』の中に生きていると思っていたけれど、正しくは『世界像』の中に生きていることを示している。
『像』であるから、簡単にひっくり返る。
事実(この場合実の母親じゃなかったこと)を知ってしまうと、心の中の『世界像』が決定的に変わってしまった。
知る前と知った後で世界は何も変わらない=世界は言葉でできている

 世界像が歪むとき

年をとると昔では思いもつかないことを考えるようになる。たとえば昔住んだ町、家を訪ねようと思ったり。その体験が世界像が歪んだ例として挙げられた。

転勤族の子の運命として、何度も転校を経験してきた。しかし人生初の転校について、実は父親の転勤が理由ではないことが半世紀近く経って判明する。本当は占い師の助言に従った引っ越しだった。
この時世界は歪んだ。
自分が思っていた事実は、真実と異なっていた。

それだけでなく、占いを信じて引っ越した母それに同意して家まで買った父に、自分自身が持っていた両親像が歪んでしまった。

私の体験として別れた恋人が茂木健一郎信者だったと知り、当時の好きが割り引かれた経験がある。付き合っていた頃から彼は茂木信者だったはずで、茂木信者の要素を内包した彼を好きだったはずなのに、そうと知ってしまったら振り返った彼の魅力が目減りしてしまったのだ。
つまり私の元カレ像は歪んだ。

私と誰かの世界像のズレについて

ズレの例

  • 服装の違い:シャツのボタンを3つあける、つま先が尖った靴を履く
  • 披露宴では新郎新婦がキスをするのは当たり前
  • 語尾の違い:世界観の違い(たとえば年齢)が出る=抗いがたい現実として立ち上がってくる。それにより相手の価値が減じる
  • 一人称:自分の捉え方、他者への提示、たとえばボクっ子

“呼び方”というのは明確に世界像の捉え方がにじみ出る
例)配偶者をなんて呼ぶかで、相手にとって自分の世界像が決定されてしまう
“オットのひと”=シャイな人
“ダー”=恥ずかしさを振り切ることで恥ずかしくなくなる

これら世界像のズレは不快さに繋がる
服装、語彙、言動、選択……相手との世界像の違いを毎回突きつけられると、イライラして苦しい。特に自分がマイノリティ側に立った場合、追い込まれる(電車の中でみんなシャツのボタンを3つあけて先の尖った靴を履いている世界で生きていくのはつらい)

ズレが招く不幸の例
親の誕生日に、自分が美味しいと感じたソフトシェルクラブを食べさせてあげたかったのに、親にとってカニ=殻は食べられないという世界像があり、そのギャップを超えられなかった
……自分の目的(ソフトシェルクラブを食べさせる)が達せられないと親孝行が達成されない

この話を聞いて、自分が望んでいる反応を相手が取らないと納得出来ないケースを思い浮かべた。とある芸能人のファン同士の論争。「ファンならこうすべき」と言い合っていて、自分の愛し方が最善だと考え、違う愛し方をする人は愛が足りないと見下げる、という態度を目撃した。
メールの返信がないのは愛してないから、という女の例を考えるとわかりやすい。

ズレが無くなることはないし、ズレが全くない相手というのも存在しない。
ズレているという前提で相手と向き合うと、心穏やかな関係を築くことができるかもしれない。
ズレている自分を無理矢理矯正する必要もない。

世界像の更新

子供の世界像は成長と教育により更新、補正されていく。
「ママ、舌も生え変わるの?」という子供の発言が例として出された。
歯が生え変わることを知った子供は、歯よりずっと柔らかくて脆そうな舌は当然生え変わると考えたのだろう。
しかし舌は生え変わらない。
子供は成長の過程で、「舌は生え変わらない」と、世界像を更新する。

他にも、子供同士の会話で片方が「昭和って何?」と聞いた例が出された。
その子の世界像にはまだ昭和が存在しないのだ。
その世界像は間違っているが、教育により正される。
ちなみに問われた相手は「平成の前のやつ」と答えたらしい。おとなびた女の子だろうきっと。

このことは逆に言えば、おとなになるほどに世界像は更新されなくなってしまうことを意味する。おとなになると、自分の”世界”はこれでいいのだと固定化されるのだ。

世界像の形成における強制力

長じるに連れ固定される世界像だが、教育の他に「物質とお金優位」という世界像のバイアスが干渉してくるようになる。
社会の常識に自分の世界像を合わせなくてはならないという強制力が働く。

言葉で世界像はできているのだが、あるべき世界像に合わせて言葉が吸収できないということがある。世界像の中での優先度で言葉が取捨選択されてしまう。
その例としてでてきたのが、親が友達の名前は覚えないのに、その子の親の職業はしっかりインプットされている、というもの。あーあるあると思った。
うちの母親も、何度名前を言ってもピンとこないのに、「○○で働いている子だよ」とか「××の旦那だよ」とか言うとすぐに思い出したりするから。

そうやって物質社会に適応するために、ふさわしい世界像が強制される。
喫茶店で打合せをしている時、ウエイトレスが運ぶプリンがふるふるしているとしても、決して「ふるふるしている」とは言ってはいけない。
「すごく大きい」とか、「美味しそう」なら、プリンの表現として枠内に入っており、ぎりぎりプラスに転換できるかもしれないが、「ふるふる」はいけない。それは経済活動にも物質にも関連しないから。

社会的にやってはいけないことというのは、それをやってしまったら枠外にはじき出され、「異質なもの」と判断されてしまうからだ。
集団に馴染むことは生きる上で必要な要素であり、ある種の防衛本能に感じた。
無理に敵を作る必要はないから人は強制力を受け入れる。
あなたと私は同質ですよ、と思われていた方がいい。
ここはもう少し考えてみたいポイント。

しかし、この強制される世界像に耐えられなくなり、短歌を作るほむほむ。
世界像の強制にも限度がある。その世界の人たちを真似してみて、自分自身をコントロールしようとしても無理が出る。

自分自身、自分の生きる(生きたい)世界像が、一般とどれほどズレているか理解している。

この話は以前別のトークイベントでも出て、サインを貰うときに私のプリンふるふる体験を話してみた。
私はそのとき世界のゆらぎに耐えられず一線を踏み越えたのだが、それはいいことだと言ってくれて私はその言動をとった時の言葉の感覚を大切にできている。

相反する世界像の共存 

ふたつの世界に引き裂かれて私たちは生きている。
おまわりさん、部長VSふるふる、キニキリームキロッキ、ボブ(後述)
物質社会に適応した自分と、感性に従う自分を持っている。

会社とそれ以外の場面で分けて考えている。
会社には部長がいて、部長代理がいる。これは「万一部長が死んでも代わりがいる」ことを社会的に告知している。
じゃあ家庭に帰ったらどうか。夫代理はいない。夫の代わりはあっては困る。唯一無二の自分が存在している。会社としては唯一無二人が存在してはいけないのだ。
このアンビバレンツな状態は不意に表出する。金曜日の月は美しく見えたり、空港の本屋ではいつもと違う本を選ぶのは、ふるふる側に心が揺れている証拠なのだ。
逆に月曜の朝が憂鬱なのも、ふるふる側に心を持って行かれないためなのかも。
一元的な世界を生身で生きることはできない。自分の世界像と社会の求める世界像が違うから。

世界像が共有されている業界、人間関係というのは、暗黙知に言い換えられるなと感じた。
だからそこで求められる世界像に合わせられないなら、出て行くしかないというのは、組織になじまず転職するとかに似ている。

Tips

恋人同士がふたりきりの時、特別なアダ名で呼び合う
誰かわからない、長い、ラベルとして効率が悪い=それが大切。その人だけが呼ぶ私の名前の価値。

ピッチャーが”攻める”
ボールを持っているピッチャーが攻めているように思える。ただもうそうでないことを知っているとそうは見えなくなってしまう。

しかしこのポエムのような発想は、事実を知ってしまったら二度と生まれない。

外国人風デザインカット
外国=カッコイイの世界像(古い)=価値が高い

ニュースの見出し”七三分けの下着泥棒”
路上で刃物を持った男が下着を奪うニュースの見出しに
七三分け。なぜ?恐ろしい七三分け?確実に書き手の世界が独特の方向へ踏み込んだ。

背景が予測できない(世界像が思い浮かばない)言葉と出会った時恐怖を覚える。

まったく脈絡のない、必然性のないセリフから舞台がはじまる
展開する世界像がまったくわからないから引きつけられる(期待感)。

安定的な世界像の言葉
ぶれることで次元が変わる、世界が変わる。

エスカレーターをガンガン踵を鳴らして降りる女
カスタネットガールと名付けると、相手への不快感が軽減され、むしろ楽しい気持ちになる。ラベルの変更。
物理次元では何も変わっていないのに名前を与えることで人格が向上した感じになる。

キニキリームキロッキ
カニクリームコロッケのこと。
カ行でキだけ出てこなくて可哀想だから作ったことば(中学生)。
大好き、愛しい感覚。でもこの感性は10年後は無くなってしまうだろう。
“キが可哀想”という魂がなくなってしまうことが悲しい。

いなくなったものたち
野良犬、昔はどこの町にもいたちょっと変なおじさん(たとえばボブ)。
今当たり前にあるものも、将来なくなるかもしれない。そうなると私たちの世界像は変わる。

手羽先のパックの中身が全部奇数だった
本来対になったもの、2本ある手羽、足。それが奇数になっていることで、「物質に貶められた」鳥への同情。目の前の事実に対して、違和感と悲しみを感じる感性。

子や孫という、愛する存在を、悪意のある描き方をする
愛は盲目の逆。

冷静に捉えれば悪く見える様も、愛情が凌駕してよく見えるものだが、そこで悪い表現を使うことができるのは、無意識の冷静さ、愛で曇らないまなこがあるから。絶対零度の眼差し、それに惹かれる。
孫や子供を可愛がる人を憎らしく思ってしまう。キを可哀想と思う魂の崇高さが好き。

現実の中でやればいいことは表現でする必要は薄い
特に膨らまない話題だったけど、響いた発言だった。フィクションの意味。

想定外が引き起こすリスクの排除
対談であまりに美しいひとが入ってきて倒れたことがある。だからどれほどすごい人が現れても大丈夫なように事前にリサーチする。

言葉は人間だけがもつ
赤ちゃんや動物は言葉がない。人が年をとって死ぬのは言葉を持っているからかと思ったが言葉がない生物も老いて死んでいく。

言葉によりおとなは車道に飛び出せなくなる
言葉によって人は未来を予測できる(考えられる)ようになる。
”突然車道に飛び出す”ようなことはおとなにはできない。
飛び出す→車が来る→死ぬことを知っている。
だから飛び出さない。
逆に言えば、言葉を獲得するごとにプリミティブだったりポエミーな感覚を失ってしまう。それはそれで悲劇である。

言葉を否定することは世界像を否定すること
間違った言葉遣いでもその裏にある世界・価値観を捉える方に感性を伸ばす

自由に出入りできるはずの世界を言葉で規定されてしまう 

世界像の違いを理解できない人は鈍感

相手と私はズレている、ということを認識出来ない人は感度が低い。
気になること(不快なベクトルでも)には根拠がある。つまり感覚が鋭敏。
言葉を意識化したことで世界像が変わる、変えることができる。嫌いな人を許せるようになったり、理解できないことを聞き流せるようになったりする。
言葉を捉え直したら生きやすくなるかもしれない。

他者とのズレを意識する
性格や行動パターンの違い。同じ世界を生きているのに言動が違うのはなぜだろうと考える。そうすれば自分の世界は豊かになる。
世界像を捉え直すことは、人と違う視点を獲得する、表現をする、今までにないものを生み出すためには必要な感性。

 

感想:世界像の違いを愛でよう

性格が違うのではなくその人が捉えている世界が違う(世界像が異なる)と考えると、対人関係は生きやすくなるのではないかなと思った。
自分と他者の世界像が異なることを理解できれば、無理矢理に合わせる必要はない。合わなければ出ればいい。苛立ちや戸惑いは減る気がした。それはとても生きやすくなるな、と感じた。
もちろんその「世界像を変えられないから組織を出る」という選択すら批判する世界像もあるのだろうけれど。
世界像が違うからズレが生じるのは当然。
そしてそのズレを意識し、愛でると、新しい発見があるかもしれない。
感覚を研ぎ澄ます。新しい世界像に触れることは自分の世界像を広げることでもある。

 

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