言葉の力を信じること

言葉の力を信じること

私は非常に絵が下手である。
おまけに集中力もなく雑なので、写生大会も美術の授業も碌な作品を仕上げた記憶がない。

そもそも空間認知能力が欠如しているのか、人の顔がなかなか覚えられない。
○○さんって芸能人の誰々に似ているよね、と言って、「?」というリアクションをされることが物心ついてから現在まで数多くあり、
昔はなんで理解されないんだろうと不服だったが、真実似ていなかったのだろう。
たぶん顔の微妙な差を捉えられなかったり、ある一部分にフォーカスしすぎるのだと思う。
距離感がつかめずよく物にぶつかるし、こぼすし落とす。
カーナビに「300メートル先を右折」と言われてもさっぱりどこで曲がればいいのかわからない。

それでも6歳ぐらいの頃、多くの子どもと同じく漫画家なんぞを目指し絵を描いたこともあるが、驚異的に絵がうまい幼なじみがいたため瞬時に諦めた
ちなみに絵が下手なせいかプレゼン資料も本当に情緒がない。
エクセル表の配色も独特らしい。

ひと目で理解する絵や図を描けないせいか、文字で補うよう脳が判断したのだろうか。
物心ついた頃から書くことは好きで、今日まで来た。

私は本質的に口数の多すぎる人間なので、思いを吐き出さないとたぶん死ぬ。でも一人でしゃべり続けたら病院に連れて行かれるので、その代わり文字に起こす。
私の頭のなかには常に嵐のように思考が渦巻いていて、言葉にしてくれともがいている。
更にそれはAはBである、AとBはここが違う、◎が好きだ、いやここが気持ち悪いと、オセロのように白黒ひっくり返る
我ながらカオスであるが、みんながそうなのか、私の場合はそれが過激なのかはよくわからない。

ただ文章というのは、受け手に脳内へ入力してもらうための時間が絵より遥かにかかる。
また、書き手は百点満点で伝えようと創意工夫を凝らしても、受け手には内容がわかれば20点のクオリティだってOKだったりする。
たとえばこの文章は前振りが長すぎる、駄文だ、と判じられるかもしれない。

最近退職についての記事を書いた。
実は草稿を書いたのは数ヶ月前なのだが、悩ましい部分も多かった。
今更別れた恋人の悪口や暴露話をするような行為は下品だという思いや、今現在でもつながりのある人達へ配慮の気持ちもあった。
だから感情的な内容にならないように気をつけた。それでも、読んで不快感を覚える人もいるだろう。

日記やつぶやきだってそうだ。
後で読み返したら『書かなくてもよかったな』と思うことの方が多い。
これまで基本的に言わなくてもいいことを言って自爆してきた人間であるから、余計なことを垂れ流していると自覚している。
言わなくてもいいことを言って傷つけた人もいるだろうし、私自身が傷ついたり損をしたことも無数にあるだろう。
ただ、表現しなければ相手の意識に上ることもない、ということも確かである。
失ったもの、取り戻せないものがあるとわかっていても、やっぱり伝えることは大切だと思うのだ。

口が滑ったときや、伝えることに無力感を覚えた時にいつも思い出す文章がある。
私がもっとも尊敬する作家のあとがきに書かれていた内容で、私の原点でもある。

要旨としては、

黙っていたら伝わるものも伝わらないことがある。でも伝えることは難しい。
誤解を生じさせないように意を尽くして語らなくてはいけないけれど、語ることで新たな誤解を作り出す可能性がある。
でも、誤解が無くなる可能性だってある。
話せば分かる、という言葉は理想論かもしれないけれど、少なくとも「話してもわからない」と絶望を抱えていくよりはましである。
だから言葉の力を信じている。

といった内容である。
私はその言葉の力を信じることだけで生きてきた。話せばわかると思っている。
非効率かもしれない。最後まで価値はないかもしれない。
でもたぶん伝えないという選択肢を取る方が私にとって人生は苦しいのだ。

言葉は所詮ツールである。
でも言葉によって綴れば、世界をつくることができるのだ。

 

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