流れ流れて6度目の6月

流れ流れて6度目の6月

私の人生観・価値観に絶大な影響を与えた物語がある。
それによって私は強固な決定論信者となった。
自分、ひいては世界がどういう方向へ進むのかは全て決まっている。自分の意志による判断だと思っていることすら、全てはアカシックレコードに刻まれたものである。
……こんなふうに書くとヤバい人間のようだが、単に起こることに肯定的なだけで、思うようにいかないことがあっても「まあしょうがないね」と考えられる楽天家というだけだ。

これまで2回転職をしている。
2013年6月23日に2社目の会社を退職し、24日に現在勤めている会社に入った。
昨日が終わるぎりぎりに思い出したが、ちょうど1年が過ぎた。

10464162_643760219047844_8587977685603134710_nそしてたまたま今日(2014/6/25)付の日経MJの一面は小売業調査だった。
私が新卒で入社した会社で、最初に担当した大きな仕事である。
何かドラマチックなことが起こったわけではないのだけれど、今振り返れば”仕事”、”社会”というものを身をもって実感した日々だったように思う。

期せずして昨日今日と、これまで働いた3つの会社の節目が現れた。
過去は振り返らない人間なのだが、それでも時たま「あのとき、もし別の道を選んでいたら」とぼうっと思いを巡らせることはある。
それは悩んでいたり苦しい状況にいる時ではなく、辞めた会社で学んだことが自分の血肉となっていることを感じた時ばかりだ。
辞めるまでも辞めてからも、ふっと後ろ髪を引かれるような、自分が断ち切ろうとしている未来の残像がちらついてしまう瞬間がある。
でもその衝動をやり過ごすと、やはりこの自分の選択は間違っていない、必然だったと思うのだ。

「もっとやりようがあったのではないか」とか、「しばらく待てば状況は好転するのではないか」と考えてしまうことは、単に自分が手放そうとしている場所や人や思い出、そこから手に入れるはずだったものへの情でしかないのだと思う。
それに足を取られてしまって、万一選択を翻しても、日常に戻ればその情は消えてしまう。そして変われなかった自分だけが残る。

日々大なり小なり選択をしている。
更に自分の意志が及ばない変化は数え切れないくらい起こる。
いいこともあれば最悪な状況に陥ったりする。
だけどこんなはずじゃなかったとか、なんとかなったはずだという、起きたことを恨んでも何も解決しない。だから、起こったことは変えられないから、しょうがないね、決まっていたし、と思うと楽になる。

 

ちなみに私の人生の礎となったその本は、コアなファンには熱狂的に愛されたが、残念ながらとんと売れなかった。
どんなに良いものでも、知られなければ生まれなかったのと変わらない。
そんな絶望感を教えられたが、同時にたったひとりに生きていく理由を与えられるのなら生まれた価値はある。いくつ会社や業務が変わっても、その思いだけは変わっていないと自信が持てる。

この投稿のアイキャッチに設定した写真は、昨年たまたま日経ビルを通りかかった時撮影したものだ。
壁面を這う蔦は、竣工時
手のひらぐらいの小さなものだったのに、こんなにも生い茂っている。
あっという間に過ぎ去ったと思った時間を目の前に示された気分になった。
日々自分の成長の無さに茫洋とした気持ちになるのだが、いつか振り返った時に積み重ねた時間を感じられれば幸せなのではないかと思う。

社会人になって6度目の6月に、思ったよりも早いタイミングで仕事に大きな変化が訪れた。
ただ外側の変化が本質的なものに影響を与えるかといえば、そうでもないことを知っている。
変化点にいるときはその伸び(あるいは緩み)に気づけないものだ。
過度に気張らず奢らず、起こることにまっすぐ向き合っていこうかな、と思っている。

大丈夫全部運命だから、悪いようにはならない。はず。

 

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