映画『ディオールと私』

映画『ディオールと私』

とても久しぶりにブックレビュー以外を。

2012年にジル・サンダーからクリスチャンディオールにやって来たラフ・シモンズのデビューコレクションのドキュメンタリー。
前任者ジョン・ガリアーノが不祥事(しかも差別発言)による解雇、という背景があり、本来半年かけて準備するコレクションだが、ラフに与えられた時間はたった8週間。
しかもそれまでプレタポルテを手がけてきたラフにとってオートクチュールの手法で作品を作り上げなくてはならないという非常にチャレンジングな状況でもある。

パリにあるディオールのアトリエ。ブランドの心臓部で働くスタッフたちに、ラフが紹介されるところから映像ははじまる。
ベルギー人で、フランス語は勉強中というラフは全編通して寡黙で感情の波が少ない人で、それはファーストシーンから変わらない。
老舗ブランドのデザイナーとなった高揚感はまったく感じられず、居心地悪そうにすら見える。
その分、ショー当日、隠せない感情の溢れた瞳を見るとこみ上げてくるものがあった。

平たい1枚の布を切ったり折ったり縫ったりして立体的に仕上げていく熟練の技も見もので、視覚的にも楽しめる映画である。
更にコレクション会場である「華で覆われた壁」は圧巻。

多少の衝突はあるものの、全体的に綺麗にまとまっているので、切った張った泣いた怒ったを期待する人にはドラマが足りないかもしれない。
だがその整った部分もまたパリとファッション、老舗ブランドという色に似合っている気がした。

ブランドや服飾業界についてはまったく詳しくないのだが、ものづくりとチームという点で考えさせられたり、感銘を受けるところが数多くあった。
どうも仕事柄、「大きな組織の中で働くひとり」という役割について、「物足りないのではないか」と自分勝手な判断をしてしまう部分がある。
この映画で言えば、メゾンのデザイナーがトップで、スタッフはその手伝いに過ぎないと。
彼ら彼女らは何をパッションとしているのかと。
でもそれは俗物で単細胞な人間の思い込みに過ぎず、組織の構図としてはその通りなのだが、職人としての重要さ、本人のやりがいは、ポジションは違ってもまったく同じなのだということを気付かされる。

妥協せず理想を追求する姿勢はみんな変わらない。そしてラフの描く世界は自分が仕えるDiorと同じなのだ。だからDiorの価値を具現化するために、スタッフは奮闘する。

仕事の価値というのは本人にしかわからない。
やりがいを感じる部分も人それぞれで、こうあるのが幸せ、というのはものは存在しない。
「こういうものが幸せ」と定義するのは、追いかける幸せ像を設定するため、もしくは今の自分を肯定するための”標準化”でしかないと思う。

ファッションだけでもないと思うが、作品で”名”が出るのはトップに立つ者だけだ。
この映画ではラフの背後に数えきれない人々がいてこそ成立している”クリスチャンディオール”だということが見える。
自分で創作する立場として、その”陰の一人ひとり”はどんな気持ちで仕事に向き合っているのだろう、とおせっかいにも考えてしまう。

ラフ・シモンズのチームは彼のイメージする”ファイル”を渡されてそれでデッサンするらしい。
ラフは自分でデッサンをすることなく、イメージを作り上げ、できた服を目の前にして再構築していくようだ(このあたりちょっと記憶が曖昧な上に理解が追いついていない可能性がある)。

この場面を見て、ゼロから全て自分で手がけてつくらなくてはいけない、という思い込みというか価値観を私は持っているのだなと気付かされた。

もちろん、ひとりで全てを創りあげるからこそ価値があると考える人もいるだろう。
私自身はその価値観に限りなく近い。
だが、あのコレクションをラフひとりで実現できたか?と言えば、不可能である。
それは単に人手の話ではなく、スタッフの一人ひとりが創作者だからこそ大きな世界を実現することができるのだ。

チームで働くことの尊さ、ひとりの天才を支える喜びを感じた映画だった。
こんなものをいつか創りあげたいとこころから願う。

 

http://dior-and-i.com/
http://www.fashionsnap.com/collection/dior/2012-13aw-couture/

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