報せるひとと書くひととのジレンマについて。

報せるひとと書くひととのジレンマについて。

私の名刺には広報という肩書もついているが、まだ広報とはなんぞやということを理解しきれていない。
そもそも、肩書が持つ印象とするべき仕事(と成果)のギャップについて、自分の中でわだかまっている部分がある。

ただ、これだけは大切だと信じているというか、目指すべきだと意識していることがある。
それはボスと同じ言葉をしゃべるということ。

私の印象として、よいチームというのは誰もが同じ言葉を話している。もちろんそれぞれの専門性に寄っているし視点も違うのだが、マインドとビジョンが一緒だから結局、要点を抜き出すと同じことを言っているのだ。
そしてポロッと出るキーワードは共通している。
それができている組織は強いという思いがあるので、私は自分が代弁すべき人と同じ言葉で話すということを大切にしている。

わかりやすさの犠牲になったもの

だが同時に難しいな、と思うことがあって、それは自分が伝えたいことが「伝わる」、「相手にとって咀嚼しやすい言葉」ではないということだ。
それは単語の選び方や言い回しもそうだし、全体の長さや構成もあるだろう。
たとえば物語ならばそれは作家の味となるのだが、多くの人に情報を正しく伝えることが目的ならば勝手が違ってくる。

だから私は広報として、ボスやエンジニアの書いた文章を書き直すこともある。
専門用語をわかりやすく補足するだけでなく、ちょっと哲学的だったり周りくどい表現をばっさりシンプルにすることだってある。
元の文章と自分が書き直したものを読んで、
「これはわかりやすいな」
と我ながら思うのだけど、ふとそのわかりやすさの犠牲になった味わいというか哲学というか世界というか、そういうものの幻影を見てちょっとした恐怖を感じる瞬間がある。

私は削ってはいけないものに手を付けたのではないか。
自分が描いた世界でないからなおさら、そのわかりやすさのために埋めた部分に迷う。
流暢でわかりやすい言葉で話すことだけが価値ではない。
たとえば森見登美彦の文体に惚れる読者がいるように、あれが価値を押し上げるというか価値そのものだ。
だから、誰かの言葉を言い換えるときは少し悩む。

50%しか伝わらなくても伝えないよりまし

少しだけこの悩みをすっきりさせてもらった出来事がある。
先日、「こだわり」を英語に置き換えようとして調べてみたのだがどうも適切なワードがない。
偏執的や、sticks to tiny things、というようなネガティブな印象のあるワードなのである。
なにか適切な訳語がないか検索したところ、どうやら一言で表現する単語はなさそうだという結論に行き着いた。(真偽は定かではないが、そもそも「こだわり」は日本語でもネガティブな言葉で、それがよい意味で使われはじめたのは最近だそうである。)

というわけで私は「こだわり」をいったんsticks to tiny thingsと言い換え、相手は人間なので私の意図を把握し、tiny details are important to him because he wants to make the best work that he can. と捉え直してくれた。

この体験から、「100%じゃなくても伝わらないよりいい」という感覚を改めて強くした。
少なくとも「彼は細かい部分も気にしているからいい仕事ができているんだな」と伝わる。
「こだわり」が持つニュアンスは割り引かれてしまうが、仕事への姿勢が何も伝わらないよりいいのだ。

翻訳小説はかわいそう

ところで私は翻訳小説が苦手である。
人生でたぶん3,000冊を超えるくらいは本を読んだが、その中に翻訳小説は幼少期のグリム童話などを除けば多分100冊もいかないだろう。
それがなぜか、たまに考え、時々ヒントのようなものを得て、大体わかってきたのだが、今回は別の角度から気づきがあった。
英語から日本語に、ドイツ語から日本語に、置き換えるときにやむなく削られたものにこそ筆者が託した思いがあるのではないか。
私が必要としているものがあるのではないか。

その本当は不完全であるものを全てだと捉えなくてはいけないことに居心地の悪さを感じるのだ。
そして、私に伝えたいはずの筆者の気持ちが、届かなくなってしまったのではないかと寂しさと怖さを感じる。
伝えるべき言葉が、言語を置き換えるところで誰の手にも触れられない場所でさまよっているのではないかとかわいそうになる。

そしてこの”翻訳”の作業を広報の仕事で必要とされる場面があるのだと、最近のもやもやの一端をつかめた。

私は”翻訳者”としてはスキルが高いと思っている。
インプットもアウトプットも人並み以上にしてきた。

職業的に文章を書いている人を除けば同世代の中でも1%以内に入るぐらい書いている自負がある。
読んでいる量については正直他人との比較なんて意味がないぐらい読んでいる。
私はネット中毒で活字中毒なのでそこに文字があれば読むから。
自分の読解力を割り引いてわかりやすい文章を書けるし、ソーシャルメディアを仕事で使って4年ぐらいは経つので何が響くか響かないかはわかっているつもりだ。

削った言葉の供養は、誰かに伝わること

ちなみにこの文章は長すぎるので、ここまで辿りつけない人が多いこともわかっている。
みんなどんどん飽きやすくなっている。
正確には、時間を奪うものが多すぎて、一瞬でそれが自分にとって価値があるか捌いていかなければならないのだ。
そして読み手は私が思うように解釈しないという注意も必要だ。
自分は文章を読みやすくわかりやすく整えるのが上手い方だ。私は滑らかなものを作るために磨きすぎているのではないかと不安を感じる。
それは消えることはないだろう。

でも、と考える。
やはり伝わらなければ意味が無いのだ。
どんなに豪速球を投げられてもアウトが取れないと勝てないように、伝わらなくてもいい文章なら趣味で書けばいい。
私は伝えることが仕事だから、そこは最優先にしなくてはいけないと自分を納得させる。

同じ言葉を話すためにはたくさんのことをインプットしなくてはいけない。
たくさんの情報を再構築して、まとまりよくわかりやすく、飲み込みやすく整える。
これだと思う表現を探して、試行錯誤しながら翻訳の精度をあげていくしかないのだ。

ところで、この長々と語っている文章は下記に要約される。

私は広報をやっている。
仕事の本質を理解しきれてはいないけれど、大切にしている指針、目指していることは
ボスと同じ言葉をしゃべるということだ。その理由は、強いチームは表現は違えど同じ趣旨のことを話していると思っているからだ。

だが同時に難しいと感じているのは、自分が伝えたいこと、方法が必ずしも相手に伝わりやすいことではないことだ。
私はそこそこ文章力があるのでボスやエンジニアの難解な表現を噛み砕いてリライトできるのだけど、それでは本人の味がなくなってしまうというマイナスポイントがある。

だが、伝えられない(読まれない)よりは、50%くらいしか表現できなくても伝わる方がよいのだ。
だからなるべくボスと同じ言葉を話しながらも、わかりやすく伝えるように調整する必要があると思っている。
やるべきことはそのフィルターの精度を上げていくことだろう。

どちらがよいだろうか。
広報という立場ではなく、ただ長く書きすぎるタイプの人間として、 私は元の文章を全部読んでくれるくらい、私と私の感覚を受け止めたいと思ってくれる人がいるといいなと思っている。

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